ベランダに出ると、夜の空気が少しずつ冷たくなってきました。
仕事から帰ってきて、ふと「今週末は燻製がしたいな」と思い立つ夜があります。
けれど、本格的な燻製の本を開くと、必ずと言っていいほど「ソミュール液(塩漬け液)」の作り方が載っていて、そこで手が止まってしまうのです。
水、塩、砂糖、ハーブ、スパイスを計量して、一煮立ちさせて、それを完全に冷ましてから肉を漬け込む。
その手間をかける時間が愛おしい日も、もちろんあります。
けれど、日々の仕事や家事に追われているとき、鍋を出してソミュール液を作る気力までは残っていないことも多いのではないでしょうか。
そんなとき、私の冷蔵庫にはいつも頼れる「白い相棒」がいます。
それが、発酵調味料の「塩麹(しおこうじ)」です。
塩麹を使えば、面倒なスパイスの調合も、煮沸や冷却の手間も一切必要ありません。
ただ肉に塗って、袋に入れて、冷蔵庫の隅で眠らせておくだけ。
それだけで、魔法にかかったように肉がしっとりと柔らかくなり、燻製の煙と驚くほど相性の良い、深い旨味をまとってくれます。
この記事では、安曇野の古い家で私が実践している、最も手軽で失敗の少ない「塩麹燻製」のやり方をご紹介します。
難しいことは何もありませんが、ひとつだけ「絶対に守らないと失敗するポイント」がありますので、そこだけは丁寧に解説させてください。
なぜ「塩麹」と「燻製」の相性が良いのか
そもそも、なぜ燻製の下味に塩麹を使うと美味しくなるのでしょうか。
単に「塩味がつくから」という理由だけではありません。
学生時代に学んだ食品科学の視点から少し紐解くと、そこには「酵素」という明確な理由があります。
酵素の力で肉が劇的に柔らかくなる
塩麹には「プロテアーゼ」という酵素がたっぷりと含まれています。
この酵素が、肉のタンパク質を分解して、繊維を優しくほぐしてくれる働きをします。
燻製、特に熱を加える「熱燻」や「温燻」では、どうしても肉の水分が抜けて食感が硬くなりやすいという課題があります。
しかし、事前に塩麹に漬け込んでおくと、酵素の働きによって肉質がしっとりと柔らかい状態に保たれます。
スーパーで買った特売のお肉であっても、まるで時間をかけて仕込んだ高級なハムのような食感に変わるのは、この酵素のおかげです。
ちなみに、農林水産省の広報資料でも、麹菌が作る酵素が食材のデンプンやタンパク質を分解し、甘みや旨味を生み出すメカニズムが解説されています。昔からの知恵は、現代の科学でも理にかなっていることが証明されています。
(出典/参考リンク) 農林水産省:発酵食品と食文化(aff 2023年1月号)
煙に負けない「複合的な旨味」
通常の塩漬けでは、シンプルで鋭い塩気がつきます。
一方で塩麹は、タンパク質が分解されてできた「アミノ酸」による旨味と、麹由来のほのかな甘みを持っています。
燻製の煙(スモークフレーバー)は非常に個性が強い香りです。
シンプルな塩味だけだと煙の香りに負けてしまうことがありますが、塩麹の持つ複雑で濃厚な旨味は、煙の香りと渡り合い、互いを引き立て合います。
日本酒やワインに合うのはもちろんですが、個人的には、この組み合わせは白いご飯にもよく合う「和の燻製」になると感じています。
準備するものと漬け込みの手順
それでは、実際に作っていきましょう。
今回は、手に入りやすい「豚バラ肉(ブロック)」と「鶏肉(もも肉)」を例に進めます。
食材と分量の目安
用意するのは、燻製したいお肉と、市販の塩麹だけです。
塩麹の量は、肉の重量の「約10%」を目安にしてください。
例えば、300gの豚バラブロックなら、大さじ2杯(約30g)程度の塩麹を使います。
厳密に計らなくても大丈夫ですが、「肉全体が白く覆われるくらい」という感覚で覚えておくと良いでしょう。
漬け込みの工程
ジッパー付きの保存袋に肉を入れ、とろりとした塩麹を加えます。
袋の上から手で優しく揉み込んで、肉の表面全体に塩麹を行き渡らせます。
空気をしっかり抜いて口を閉じ、冷蔵庫に入れます。
漬け込む時間は、肉の厚さにもよりますが、最低でも一晩(8〜12時間)、できれば丸一日(24時間)置くのがおすすめです。
冷蔵庫の扉を開けるたびに「美味しくなれ」と心の中で声をかけるこの待ち時間も、燻製の楽しみのひとつだと思っています。
【最重要】「拭き取り」をサボると失敗する
ここからが、今回の記事で最もお伝えしたいポイントです。
実は私も、はじめて塩麹燻製をしたときに、この工程をおろそかにして失敗した経験があります。
それは、燻煙にかける前の「塩麹の完全な拭き取り」です。
なぜ完全に拭き取り、洗わないといけないのか
塩麹には糖分が含まれているため、非常に「焦げやすい」という性質があります。
また、麹の粒(米の粒)が肉の表面に残ったまま燻製すると、その部分だけが黒焦げになり、苦味が出てしまいます。
さらに、麹の水分が残っていると、煙に含まれる成分と反応して「酸味(すっぱさ)」の原因にもなりかねません。
「せっかくの麹を洗い流すのはもったいない」と思う気持ち、痛いほどわかります。
けれど、ここは心を鬼にして、表面の麹を取り除く必要があります。
正しい拭き取りの手順
冷蔵庫から肉を取り出したら、まずはキッチンペーパーなどで表面のぬめりと麹の粒をしっかりと拭き取ります。
もし、粒が入り組んでいて取れにくい場合は、一度さっと水洗いしてしまっても構いません。
ただし、肉を水洗いする際は、水が跳ねてシンク周りに菌(カンピロバクター等)が飛び散らないよう、静かに洗うよう十分注意してください。内閣府の食品安全委員会からも、生肉を洗う際の水跳ねによる二次汚染について注意喚起がなされています。
水洗いをした場合は、すぐに新しいキッチンペーパーで水分を徹底的に拭き取ってください。
そのあと、さらに網に乗せて冷蔵庫で1〜2時間ほど乾燥させ、表面をサラサラの状態にします。
この「拭き取り」と「乾燥」の手間さえ惜しまなければ、塩麹燻製は成功したも同然です。
(出典/参考リンク) 食品安全委員会:カンピロバクター食中毒予防について(Q&A)
いざ燻製へ。温度と時間の目安
肉の表面が乾いて、指で触っても水分がつかなくなったら、いよいよ燻製器へセットします。
ライターで着火する瞬間、今日いちにちのざわざわが、少しだけ後ろに下がる感じがします。
おすすめの温度帯
肉を生の状態から加熱調理も兼ねて燻製する場合は、80℃〜100℃程度の「熱燻」が安心です。
カセットコンロを使う簡易燻製器や、温度調節のできる電気燻製器であれば、中までしっかり火を通すことを意識してください。
もし、温度計を見ながら50℃〜80℃の「温燻」でじっくり香り付けをしたい場合は、燻製後にフライパンで焼くか、ボイルして火を通す工程を必ず追加してください。
安全に楽しむためにも、中心部までの加熱は必須です。
特に、今回使用する豚肉や鶏肉には、食中毒のリスクが伴います。厚生労働省では、食肉による食中毒を防ぐため、「中心部まで75℃で1分間以上の加熱」と同等の熱処理を行うことを推奨しています。見た目の焼き色だけで判断せず、心配な場合は調理用温度計を使用することをおすすめします。
(出典/参考リンク) 厚生労働省:お肉はよく焼いて食べよう
チップの選び方と燻煙時間
チップは、肉の強さに負けない「サクラ」や、クセが少なく万能な「ヒッコリー(オニグルミ)」がおすすめです。
燻煙時間は、熱燻であれば20分〜30分程度。
蓋を開けた瞬間、飴色に輝く肉が見えたら完成の合図です。
煙をまとった塩麹肉の味わい
出来上がった燻製は、すぐに食べたくなりますが、そこをぐっと我慢して粗熱を取り、できれば冷蔵庫で一晩寝かせてください。
煙の角が取れて、塩麹の旨味と一体化するからです。
翌日、薄くスライスして口に運ぶと、その食感に驚くはずです。
豚バラ肉は、脂身の甘みが引き締まりつつも、赤身の部分はしっとりと柔らかい。
鶏肉は、パサつきがちな胸肉であっても、驚くほどジューシーに仕上がります。
噛むほどに広がるのは、単調な塩味ではなく、味噌漬けにも似た奥深いコク。
そこにスモーキーな香りが重なり、これだけで立派なメインディッシュになります。
まとめ:塩麹は「手抜きの道具」ではなく「魔法の調味料」
今回は、塩麹を使った燻製術についてご紹介しました。
最後に、ポイントを整理しておきます。
- 酵素の力:塩麹のプロテアーゼが肉を柔らかくし、旨味を増幅させる。
- 準備の手軽さ:ソミュール液を作る必要がなく、肉重量の10%を揉み込むだけ。
- 最大の注意点:燻製前には塩麹を「完全に拭き取り」、表面を乾燥させる。焦げと酸味を防ぐために必須。
- 食材の相性:豚バラ肉や鶏肉など、脂のある肉との相性が抜群。
「本格的な燻製」というと、何か特別な秘伝のタレが必要な気がしてしまうものです。
けれど、身近なスーパーで買える塩麹ひとつで、自分の家のキッチンが小さな工房に変わります。
もし冷蔵庫に使いかけの塩麹が眠っていたら、今度の休日はそれを「漬け込み」に使ってみてください。
特別な道具や技術がなくても、自分の手で何かを作り、味わう時間は作れます。
そんなささやかな時間が、あなたの「燻す日々」に、静かな喜びを足してくれるはずです。



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